書いた人
荒井貴彦
インタビューを得意とし、求人系やライフスタイル系、ビジネス系、医療系など幅広い記事を執筆。ビジネス系では記事の執筆だけでなく資金調達サポートも行う。また、「荒川甘受」名義で短歌やエッセイなどの創作活動をしている。
タレントリストでは主に企業向けbtobインタビュー案件を数多く担当。
クリエイターインタビュー vol.4: サウンドプロデューサー・鈴木Daichi秀行
2025.01.14 インタビュー
鈴木Daichi秀行Xアカウント
サウンドプロデュース/作曲/編曲/エンジニア
楽曲提供アーティストは絢香、モーニング娘。、Superfly、YUI、いきものがかり、松浦亜弥など。日本の有名アイドルやシンガーの楽曲には必ずと言ってよいほどクレジットとして登場し、数多くの名曲を生み出した。
タレントリストとの関わりは、音声収録のためにスタジオをお借りすることから始まり、イベントプロジェクトへのご参加をはじめ、これまで多岐にわたる活動でご協力いただいてまいりました。
そんな鈴木Daichi秀行さんはどのようにアイディアをストックし、どのような考え方でアーティストプロデュースに取り組んでいるのでしょうか?
つんく♂氏とともに一時代を築いた名クリエイターが語る、プロデューサー・アレンジャーに必要なこと
記憶がないほど作り続けたハロプロ時代
―もともとはミュージシャンだったDaichiさんですが、その後はライブを支えるマニピュレーターに。その背景を教えてください。
鈴木Daichi秀行さん(以下・Daichiさん)
もともと「Coney Island Jellyfish」というバンドでメジャーデビューしたのですが、そんなに長く続かなくて解散してしまいました。無職になってしまったのでどうしようかなと思っていたのですが、知り合い伝いで「マニピュレーター」という、ライブやレコーディング時に打ち込みの音を担当する仕事を手伝わせてもらうことになったんです。実は、僕は表に出るのがそんなに得意じゃないんですよね。基本的には1人でパソコン自作したり楽器をいじったりするのが好きなので、ミュージシャンからマニピュレーターへのシフトは自然な流れだったように思います。
―そしてその後は編曲を担当するアレンジャーへと転身されます。
Daichiさん
マニピュレーターとしての仕事はライブへの帯同が多く、地方を回るのが楽しい一方で、「形に残る作品作りに関わりたい」という気持ちが強くなっていきました。当時はアレンジャーとしてCD制作の編曲に関わることも増えており、そちらへの移行も視野に入れていました。ツアー1本に帯同すると数ヶ月は家に帰れませんし、仕込みも含めるとツアー開始の1ヶ月前からはデータ整理などで他の仕事ができなくなります。そこで途中からマニピュレーターの仕事はもうやらないと決めました。
―その頃からつんく♂さんと仕事をするようになったんですよね。
Daichiさん
そうですね。つんく♂さんとはもともと僕がバンドをやっていた頃に、大阪城ストリートライブ、いわゆる「城天(しろてん)」で知り合いました。当時からシャ乱Qはものすごい人気でしたね。たしか2000年ごろ、僕はアレンジャーとしてあるスタジオにいたら、偶然つんく♂さんと再会したんです。
その頃丁度アレンジャーを探していたみたいで、当時所属していた事務所にも
アレンジャー候補の問い合わせがあったタイミングで渡した資料の中の
僕の作っていた音源資料をディレクターが気に入ってくれたようで、
とりあえず一曲やってみよう!というのがハロー!プロジェクト(以下・ハロプロ)の仕事に関わるようになったきっかけです。そこから怒涛の仕事漬け生活が始まるわけですが…。
ハロプロとしてのリリースって、アルバムなりシングルなりが毎週出ていたんですよ。もう、ひたすら作り続けるしかない。そういう日々でした。だから、ハロプロ時代は忙しすぎてあんまり記憶がないんです(笑)。
―毎週のように楽曲を作っていたということですが、アイディアが枯渇することはなかったのですか?
Daichiさん
アイディアが出ないことはなかったですね、というか、何もなくても作らないといけなかったので…。枯渇する暇もないというか。加えて、当時はアイドルにとって不遇の時代。お手本となるようなわかりやすいアイドルがいませんでした。まさに今のアイドルの原型が、モーニング娘。をはじめとしたハロプロなわけです。だから「とにかく作らないと」と、ディレクターも含めてみんなで朝から晩まで話しながら制作に取り組んでいましたね。そのなかでも一番すごかったのはやっぱりつんく♂さん。一人で1日5曲くらい作っていましたよ。
―制作にあたり「何もお題がない」というときはどのように進めていたのですか?
Daichiさん
最初はサビのメロディーしかないみたいな状態で渡されることもよくありました。完全にお任せのときはたしかに困っちゃいますよね…(笑)。とはいえ、まずは作ってみる。とりあえずで良いので、メロディーに合う歌詞やアレンジを考えて他の人に聞いてもらうと、「もっとこう変えたほうが良い」と意見をもらえます。
ただ、とりあえず作るといっても「ライブ映え」は常に考えていました。アイドルがステージに立って披露する姿を想像していると、「ここで照明がバーっとつく」「ここで派手なアクションがある」といった演出も自然にイメージするようになっていましたね。おかげで僕の作っていた曲はライブで人気があったようです。
つんく♂氏から学んだことは?アイディアはどのようにストックする?
―つんく♂さんと仕事をするなかで印象的だったことを教えてください。
Daichiさん
特に印象的だったのは後藤真希さんのソロデビューシングル「愛のバカやろう」のアレンジを担当したときです。このとき、つんく♂さんからは「この曲の売りは?」と何度も聞かれました。また、「聞いた人にわかるよう、テーマを際立てることが大事」とも言われましたね。
それまでの僕は「音としての音楽」は作れていたかもしれませんが、景色を見せたり感じさせたり、まさにエンターテインメントとして記憶に残る楽曲作りはできていなかったと気づきました。もちろん楽曲として良いもの、面白いものを作るという意識はありましたが、「一言で表現するとどんな曲」というわかりやすさまでは十分ではありませんでした。
―Daichiさんの作品といえば、ジャンルを横断した曲作りが印象的です。この引き出しの多さはどのように培われてきたのでしょうか?
Daichiさん
単純にいろいろな音楽が好きなんですよね。有線放送を個人で契約して、国内外のあらゆるヒットソングをずっと聞いていました。 好きとか嫌いとかではなく、とにかく流行っている曲。日本の音楽でいうと、当時はほとんどが小室哲哉さんの曲でしたが。
―どのような部分に注目しながら音楽を聞いたのですか?
Daichiさん
いまもそうですが、音作りや機材をイメージしながら聞いていましたね。曲のテーマや聞かせどころなども自然と分析しちゃうので、曲そのものを楽しめなかったりするのですが…。重要なことは好きとか嫌いとか関係なく聞くということです。別に自分が好きじゃなくても、その曲が好きな人はいるわけですから、「その人たちはこの音楽のどういうところが好きなんだろう?」と想像すること。その感覚を自分でわかるように努力するというか。やっぱり、その感覚がわからなかったら良いものは作れないんですよ。
DIY精神からはじまったプロデューサー業
―Daichiさんは現在ではプロデューサーとしても活躍されています。プロデュース業を始めたきっかけを教えてください。
Daichiさん
プロデューサーになりたかったというよりは、「自分が好きな音を最初から最後まで作りたい」というDIY精神が原動力です。アレンジャーとプロデューサーの仕事内容って実はそんな違いがないんです。ただ、アレンジャーとして編曲として受ける場合は、たいてい参考資料があるわけですが、プロデューサーの場合は基本お任せ。その人のサウンド感ありきで依頼が来ます。
僕の場合はアイドルやシンガーソングライター、ロックバンドなどさまざまなジャンルを知っているからこそ、ジャンル横断的な楽曲を依頼いただくことが多いですね。そういうオーダーに僕のスキルが合致して、だんだんプロデューサーとして仕事を依頼してもらえることが増えていきました。
―ご自身でスタジオを作られたのも、DIY精神と関係していそうですね。
Daichiさん
そうですね。海外のスタジオやプロデューサーは割とこういうスタイルなんですよ。自分でスタジオを持っていて、そこにはその人の好きな機材がある。そこでレコーディグすると、そのスタジオでしか生まれない音になるんです。僕が好きなプロデューサーでトーレ・ヨハンソンという方がいるんですけど、彼の制作現場はレコーディングスタジオというか、ただの一軒家。リビングだけでなくキッチンにも機材があって、みんながリラックスしながら演奏していて。でもその音がかっこいいですし、普通のスタジオだったら到底再現できないなと思うんです。僕のスタジオでも、そういう「ここだから生まれる音楽」を共有できると良いですね。
―プロデュースではどのような方針や考え方を大事にされていますか?
Daichiさん
いまはレーベルも自分で運営しているので、基本的にプロデュースもレコーディングも自分でお金を出しています。これは僕がバンド時代に所属していたレーベルの方針を参考にしています。つまり、アーティスト主導でマネジメントや制作、プロモーションを行うスタイルです。アーティストはレコード会社から活動費をもらい、そのなかで制作費やライブ資金、広告費などを自分たちで割り当てる。マネージャーもアーティスト自身で決めるんです。僕がバンドをやっていたときはまだ20歳くらいで、正直このシステムを聞いても「何言っているかわからない」という感じだったのですが、結局は自分のことは自分でやろうって話なんですよ。アーティストは活動を通して「自分にしか表現できないものってなんだろう」と模索することが大事だと思います。
―アーティストとのコミュニケーションで意識していることは何ですか?
Daichiさん
基本的には本人たちのやりたいことがベースになっています。歌詞も本人たちが書くんですよ。僕自身は「この方針でプロデュースしたい!」という強い願望がなくて、むしろアーティストがやりたいものを具体化して最大化することが好きなんですよね。その「やりたいもの」は、とにもかくにも音で見せてもらいながら試行錯誤を重ねていきます。
ただ、ビジネス的にどこまでやるかっていうのは永遠のテーマとも言えます。僕自身もアーティストをやっていたわけですが、何が正解かは本当にわからない。バンド時代もそうでしたが、プロデューサーが「これだ!」と決めて作ったときも、それが売れるときもあれば、まったく売れないこともあるわけですから。
プロデューサー・アレンジャーとして活躍するために大切なことは?
―これからプロデューサーやアレンジャーを目指す方に向けたアドバイスをお願いします。
Daichiさん
たくさん失敗して怒られる経験を早めにしておくのが良いと思います。40代ぐらいで怒られると、ちょっと辛いじゃないですか。でも、若いうちなら怒られると同時に可愛がられることも多いんですよ。僕は若いスタッフとコミュニケーションを取ることもあるのですが、失敗を怖がってなかなかチャレンジしない人が多いように感じます。でも若いうちは大丈夫。たくさん失敗して、たくさん恥ずかしい思いをした方が良いと思います。
―Daichiさんのようなジャンル横断的なプロデューサー・アレンジャーを目指すのが良いのでしょうか?
Daichiさん
そうとは限りません。そうではなくて、自分の得意分野を知っておくことが大事です。友人や先輩・後輩は一つの分野に特化している人もいるのですが、僕はどちらかというと幅広い何でも屋。たとえばロックが得意な人に、「ロックっぽいけどポップなもの」と頼んだとき、ロックが強すぎてしまうこともあるのですが、僕はロックサウンドを活かしつつポップに仕上げられる。そこに需要があると思うんです。逆に、「完全にビートルズみたいにしたい」「本格的なUKロックに仕上げたい」といった場合だと、僕よりも分野に特化した人頼んだ方が良い。
そういう住み分けと、自分の立ち位置を把握することが大切です。やっぱり自分ができることと好きなことは違うので、それに早い段階から気づけると苦労は少なくなるんじゃないかと思います。
―最後に今後挑戦したいジャンルやプロジェクトをお聞かせください。
Daichiさん
すでに動いていることもあるのですが、海外への発信にチャレンジしていきたいですね。音楽単体としてきちんと勝負できるようなもの。いまも海外アーティストとの制作も進めています。また、僕がプロデュースしている森翼くんとも「日本のマーケットは飽和しているんじゃないか」という話をしていたら、彼は突然タイに行って現地のアーティストと仲良くなったり。
海外の人は「日本語がわからなくても日本語で聞きたい」っていう人が意外と多いんですよね。もちろん現地のテイストに合わせるのも場合もありますし。音楽に関してはもう国境がなくなっているので、チャレンジしないともったいないなと思っています。