クリエイターインタビュー vol.1:映像クリエイター諏訪翔平

2022.02.18 インタビュー

諏訪 翔平
1990年5月9日愛知県生まれ 京都芸術大学(元:京都造形芸術大学)卒業
在学中に辻仁成監督作品「醒めながらみる夢」のドキュメンタリーを撮影しながらボーイズシンクロチーム「iNDIGO BLUE」にて総合演出を担当(パフォーマー兼務)

大学卒業後、2014年に「株式会社Panbanisha(パンバニーシャ)」を設立し、文部科学省、楽天、アミューズ、リクルート、大手美容メーカー多数、Google等の企業案件の映像を担当しながら
映画やテレビの再現ドラマの助監督・制作業務を行う。
映像だけには留まらず日テレの舞台「魔界転生」で堤幸彦監督の演出助手を担当するマルチクリエイターの映像への考え方や仕事の価値観を育てた学生時代などボリュームたっぷりのインタビューです。

『自分って何者?』が表現の原点

映像を通して自分を知りたかった

Q.諏訪さんはもともと映画監督が夢だそうですね。夢のきっかけや表現したいことなどがあるんですか?

諏訪さん「きっかけは小学1年生の時に見た『明日に向かって撃て!』という西部劇です。なぜか見終わった瞬間に“映画監督になる”と決めて、そこからずっと変わっていないです。」


Q.映画監督ですか。その頃から何か撮りたいテーマや表現したいものがあったのでしょうか?

諏訪さん
「いや、実は僕、表現したいものがあったことがないんですよ。だからこそ、映像を撮ることが好きなんです。

映像を撮るときの、いろんな人のバックボーンとゆっくり向き合える、相対できるっていうのがすごい自分に合っていると思っています。その人の人生を少し見せてもらうことで、“自分って何だろう”っていうのを見つけたいな!というのが、撮る1番の理由かもしれないですね。  
高校くらいまでは鏡見るのも嫌いなくらい自分に自信がなくて、自分のこと気持ち悪いって思っていたので」


Q.諏訪さんにそんな時期があったなんて意外です!そう思うきっかけがあったんですか?

諏訪さん
「一番のきっかけは、中学時代の対人関係ですね。当時の僕はやんちゃな奴とも仲がいいし、おとなしい奴とも仲よくて。僕としてはどっちに対してもフラットなんですけど、陰キャの子たちは学校の中の自分のポジションというものをすごく気にしていて、その緩和剤として僕と仲良くしているのを感じていました。それに気づいた時が結構ショックで。
僕はこんなに1人ひとりのことが好きなのに、そういう“役割”として見られていたのが凄い嫌でしたね。それから『自分は何者なんだ』って探している感覚があって。

今は仕事を通して、どんどん自分を好きになろうとしている段階です。己の期待に答えることで、好きになってきていますよ、自分のこと。 我ながら不器用だなって思うけど、前向きに生きようとしています。」

表現できないものがあることを知った大学時代

Q. 映像表現を通して自分探しをしているのですね。本格的に映像を学び始めたのは大学時代からということですが、大学生活はどうでしたか?

諏訪さん
「いろいろありましたよ。映像を学べる京芸(京都芸術大学)に通っていたんですけど、学校の実習で20人くらいと短編映画を撮ったんです。それまでは “俺はやれる”というか、そんな根拠なき自信があったのですけど、日に日にメッキがはがされていった感覚があって。後半ではストレスで腸に穴が開いて、血便とかじゃなくてケツから血が出てくる状態で、おむつをしながら撮っていました。

(学生時代の諏訪さんの撮影風景)

でも、そんな思いをしながらできあがったものは、自分を一切表現できていないし、そもそも自分が思うようなクオリティじゃなかった。現実を突き詰められましたね。それでも関わってくれた人がいる以上、大学の先生にお願いしてつなげてもらった監督や評論家のところに作品を持っていきましたが、やっぱりボロクソ言われて。それでもと思って自主上映会を開いたんですけど、来てもらった人に感想を聞いても全然だめで。

それから3~4ヶ月経った頃に、急にプツッと糸がきれてしまったんです。
学校も行かなくなって、3日間くらいストーブの前で何もせず起き続けて、 異常に腹減っていることに気づいて夜中のスーパーに弁当2個くらい買いに行って食べて、24時間とか30時間とかぶっ通しで寝る・・・っていうのをずっと続けていました。
大学のみんなが心配して毎日家に来てくれるけど、ピンポンとか電話が凄い怖くて。その子たちが帰ったなと思ってドアを開けてみると、食べ物とか飲み物がかかっているんですよ。
それも凄く苦しくて。
僕を認識しないでほしかったんです。」


Q.お友達の優しさすら重荷に感じるほどの精神状態だったのですね。どうやって立ち直ったのですか?

諏訪さん
「そういう状態になってからしばらく経って、少しずつ外に出るようになると、深夜の山に登るとか破滅的なことをしていたんです。
それである日、”大雨の日に道路で寝ていたら、轢かれて死ねるんじゃないか“みたいなことを思いたって。
で、実際に寝転んでみたら『めちゃくちゃナルシズムだな。どんだけ自分に酔ってんだよ』と思って、その場で吐いて、なんか馬鹿馬鹿しくなったというか。
思い描く自分と現実の自分とのギャップに苦しんだ時期もありました。 」


Q.そんな苦しい時期から復活した頃に東日本大震災が発生し、カメラを持って気仙沼へ向かったとか。

諏訪さん
「仲間の中に地元が東北の奴らがいまして、家族と連絡が取れない、家に帰れないってことで、8人くらいがうちに泊まっていたんですよ。 2週間くらいうちにいた奴もいたんですけど、そういう奴らと一緒に過ごす中で『みんなが感じている恐怖や不安が自分の中にない』っていう違和感をアウトプットできていないことがすごく苦しくて。でも苦しんでいるくらいだったら肌で感じなきゃ何も分かんないと思って、とりあえずカメラを持って現地にいきましたね。」


Q.すごい行動力ですね。実際行ってみて、何か撮れましたか?

諏訪さん
「結論からいうと、何も撮らなかったです。
震災が発生して2週間経ったくらいに”何か見つかるまでいよう“と思って向かったんですけど、実際に行ってみると壮絶だなと思うと同時に、その中にいる人たちがどこか壊れていると感じて。壊れないと生きていけないんですよね、きっと。

仮設住宅の隣に車を停めて寝て、いろんな人と交流していくうちに、やっぱり自分で向き合って、知って、においをかいで、触って温度を確かめて・・・って体感以上の表現が、映像ではできないと思ったんです。特にこのことに関しては。
3週間いかないくらいの滞在だったんですけど、到着した日は”何か見つかるまでいよう“と思っていたのに、出した結論は「答えなし!」でした。
僕はここでは作品は作れないと思ったんですよね。僕が撮るものはないなというか、撮ったら陳腐化するなと思ったし、被災者の人たちのことを今の僕じゃ語りきれないと思ったんです。」

仕事への向き合い方を変えた出会いと2度の舞台演出

1度目は自分の甘さを痛感

Q.大学時代のそういった経験が、ライブ感を大切にする諏訪さんを形成しているんですね。諏訪さんは主に映像ディレクターとして活動していますが、堤幸彦さんが演出する舞台・魔界転生にセカンド演出家として2度参加したことがあるそうですね。参加のきっかけはなんだったんでしょうか?

諏訪さん
「実は23歳の頃、辻仁成さんの現場に行ったことがあるんです。映画の現場に行きたかったので、役者のオーディションに潜り込んで、辻さんに直訴して現場に帯同させてもらって。当時鼻っ柱だけは強かったんで、他のスタッフ達からは凄い否定的な感じに扱われながらも食らいついていったんですね。

その現場で、辻さんの知り合いであるテレビ局のプロデューサーの方と仲良くなって、その方から1度、堤さんの最初の作品『真田十勇士』の現場に声をかけてもらいました。
ただ、そのときは“舞台は僕のやりたいことではない”とお断りしたんです。
それから2年くらい経ったときに、その方から今度は堤さんが映像をたくさん使う舞台をやると聞いて、“僕を現場に入れてほしい”とお願いしました」


Q.一度断った舞台演出だったのに、なぜその時は参加をしようと思ったのでしょう?

諏訪さん
「映像をたくさん使用する舞台だって聞いたんで「面白そうじゃん」って。
僕、高校生から大学の終わり頃までボーイズシンクロナイズドスイミングをやっていたんです。パフォーマーも演出家も経験をしたんですけど、そういったパフォーマンスやライブ形式っていうものが、1番自分の才能を発揮できるという感覚があって。

ただ、やりたいのが映画なんですよね。自分の才能とやりたいことに乖離みたいなものを感じていました。だから、映像を使った舞台というのは、その乖離みたいなのを埋めてくれるんじゃないかなっていう期待があって参加しようと思いましたね」

(シンクロ活動風景)

Q.なるほど。実際参加してみてどうでしたか?

諏訪さん
「考えが甘かったですね。全体の動きを把握して道を示したり、全部の責任を引き受けるポジションだって知らずに参加したんです。
才覚のある若手たちが30代後半とか40代になって初めて立てるポジションに、何も知らない23歳の僕が責任あるポジションに入ってしまったわけです。
映画に対する僕の情熱のように、舞台に対して熱い気持ちで取り組んできた人、舞台に人生を捧げてきた人たちをまとめ、指示するってポジションだから、最初はボロボロでしたよ。
仕事に対する責任を分かってなかったなと痛感しました。
今までは“自分が失敗しないことや『自分が周りに損失を与えない』ことを責任だと思っていたんです。
でも、舞台は生ものですし、それだけでは足りないんですよね。
役者さんたちが怪我などの安全面に気をとられずにしっかり表現できて、舞台に関わるひとりひとりが自分たちの責任を全うできる状況まで作ることが僕に与えられた役割であり、責任の範囲だったんです。
それからは、自分が気を回す範囲が広がりました。
本業の映像ディレクターの仕事であっても、映像を撮る意味や役者、クライアントたちのことを考えて、よりコミットしなくてはいけないんだと思うようになりましたね。」

2度目に味わったのは“人生最大のプレッシャー”

Q.初めての舞台演出への参加は苦労されたんですね。2度目の参加はだいぶ要領がつかめたのでは?

諏訪さん
「むしろ2度目の方がしんどかったです。人生最大のプレッシャーを味わいました。
ポジションは1度目と同じだったんですけど、2度目はコロナ禍ってこともあって、勝手が違ったんですよ。大人数をあまり集められなくなってきていたし、感染対策のことも考えなければいけなかった。
1度目と勝手が違うといっても、それは言い訳にならないじゃないですか。厳しい状況下でも、舞台のプロフェッショナル達を相手に、ずっと指示だしをしなきゃいけなかった。そのためには、その人たちに納得してもらえるよう、誰よりも自分が舞台を理解しなきゃいけないんです。毎日大きなプレッシャーを感じていましたね。」


Q.そんな人生最大のプレッシャーを受けながらやり遂げた舞台演出ですが、何か自分の中で変化はありましたか?

諏訪さん
「仕事を理解するときの深度が変わりましたね。どこまで自分が与えられた仕事を深く見るかっていうのが1番大きく変わったかな。あとは度胸もつきましたね。舞台のスタッフさんたちに怒られても、こちらの指示を聞いていただけないと進行ができないので。
でもそれは、自分の理解がどこか及んでないから怒らせているんだなって思えるようになったので、1公演1公演をこれまで以上にしっかり把握して、アジャストするようにしました。」

仕事感を変えたのは”タレントリスト”との出会い

Q.2度の舞台演出が諏訪さんの仕事への向き合い方を大きく変えたのですね。1度目の舞台演出後に出会ったタレントリストも実は諏訪さんに影響を与えたとか。

諏訪さん
「株式会社タレントリストの皆さんとの出会いはデカかったです。
『クライアント=取引先会社』ではなく、あくまで会社は人がつくっているんだって気が付かせてくれました。
僕は一般企業に就職したことがないので、タレントリストの皆さんに出会うまでは、一般企業というものが想像できないこともありました。
クライアント側の僕に対する関わり方が、表面的だったり事務的なものに感じて、僕自身も距離を取っていたと思います。
でも、タレントリストの皆さんは、そんな自分のことをいい具合にほぐしてくれたというか(笑)

それぞれの人柄が見えやすい体制の会社なこともあって、システムのために人がいるんじゃなくて、”会社は人が作っている””人ありきで仕事があるんだ”っていうところが見えて、すげえいいなと思って。人に魅力があるから、そこから仕事が生まれているんだろうなって思わせてもらったので、僕もこういう風に仕事できたらいいなってすごい思いました。それが結構大きかったですね。」

“表現”に集中できる環境づくり

目の前に集中するための機材選び

Q.ところで、諏訪さんは同じ機材2台で撮影していると聞きました。なにかこだわりあってのことですか?

諏訪さん
「僕が使っているSONYのα7Ⅲという一眼レフタイプのカメラは、何かに突出しているという感じではないのですが、小型かつ暗所の撮影に強いのが特徴で、照明が組めない場所や夜間での外の撮影などに重宝しています。ミラーレスなので、シャッター音が鳴らないこと、小型なことから被写体へ威圧感を与えないのもお気に入りです。
あとは、比較的安価なので、撮影時に無茶して壊してもいいやって思えるのが最高です(笑)

同じカメラを使っている理由は、機材によって変わる色合いや使い方などを気にしたくないから。違う機種だと、脳が切り替わるじゃないですか。それがちょっといらないというか。
とにかくストレスなく使えることの方が重要ですね。
しっかりとした撮影の際はカメラハンド、モニターやマイクなどで機能を拡張して使っています。

もちろん、めっちゃリッチな画を作りたい時とかは、カメラを借りてきたりします。リッチな画の時は、撮りたい画をイメージに近く撮れるカメラを選んでいて、僕の場合はブラックマジックってメーカーのカメラを借りることが多いですね。」

表現に大切なのは、フラットに楽しく生きるマインドセット

Q.“表現したいものをどう動画にするか”するかといったところに全力を出したいのですね。
他に大切にしていることはありますか?

諏訪さん
「型にはまらないことですね。その瞬間に思ったことや感じたことを優先できるような自分でいたいんです。そこにいる人のそのときの気分とか感情もそうだし、天気も温度も湿度も全部が映像づくりに関係してきていて。そういう感情や状況に対して常にフラットに受け入れられるマインドでいれることが大切かなと思っています。

もちろん気持ちだけじゃなくて、いろんな映像の撮り方も知っておくべきですよね。
“自分はこれしかできないからこれでやろう”じゃなくて、 “こういう映像を撮りたいから、こう撮ろう”っていうチョイスを持っておくようにはしたい。そのための勉強は必要かなって思うので、今も意識的に他の人の映像を見るようにしています。映画を見るっていうのは、自分の中で楽しむことでもあるし、そこで「おっ」て思うことを収集する感覚というか。それは映画に限らず広告とか、それこそ食事屋のメニューとかでも”いい感じじゃん”って思う、”おっ”をいっぱい集めている。収集癖ですね(笑い)

でもそういういいものも、体調悪かったりすると目に入ってこなくなったりするんで、常に楽しめる状況を作るようにはしていますね。 すごい仕事量があっても、それを負担にしないようにどう楽しんでできるかってことを考えるようにしていますね。だからいま僕が表現する上で一番大切にしていることは、“楽しく生活すること”なんです。 」

“次回作”こそ代表作に

目指すはお客さんの行動を変える映像づくり

Q.最近は仕事の幅が広がっていると聞きました。

諏訪さん
「WEB媒体の仕事が増えていますね。僕としては、視聴者、いわゆるターゲットがよりイメージしやすくなったと感じています。自分の性格的に、漠然といろんな人に対して面白いとか感動させるって、嘘をついているような違和感があったんです。典型的なものを作って、典型的な感情になる人たちに向けて作ることって、向こう側に誰もいないんですよ。WEB媒体の仕事はそういうのがないかなと思います。少なくとも『この商品を買いたい人』とか『このサイトを調べるような人』とかっていうのが分かるので、そういうユーザーの存在をすごくすごく想像します。以前やっていたシンクロでも感じていたことですが、お客さんは何かしらの変身願望を持っていると思っていて。で、僕らの演技を見ることでその人たちが満たされて、もう一歩踏み出す。そんなきっかけや変化みたいなものを、仕事でもゴールにしたいですね。」


Q.やはり諏訪さんはリアル感を大切にしているのですね。具体的にはどんな工夫をされているのでしょうか。

諏訪さん
「WEB動画は視聴者(ターゲット)をより細分化できるので性別や年齢、所得や好きなことなどを仮定して、その人ならどんな時間帯に何を使って映像を見るかって想像し、そこから映像のイメージを膨らませるようにしています。

たとえば、コスメの動画ならその女性が若年層で通勤・通学中にスマホで見るだろうと想像したら、小さな画面でも見やすいように、明るい照明でテロップや被写体を大きくします。年齢が若いから、SNSなどでテンポの早い動画を見慣れているだろうということで、編集も飽きさせないように常に何かを動かしたり。

反対に、パソコンで見るようなミドル層ならシックな照明で撮影し、落ち着いてみてもらえるように編集のテンポを落とします。画面のサイズが大きいのでアイテム自体もあえて小さく写して注目させる等の見せ方もできるかな、などなど。

同じ動画でも画面のサイズや視聴環境によって、目や耳から入ってくる情報が異なるので、動画全体の見せ方(撮影段階での照明や背景選び)や音楽、テロップのサイズやカラー、編集のテンポなどターゲットが何を観たいのかを想像して作っています。
画として格好いいとかじゃなくて、「本当にこれを買ってくれるか?」というところまで、どんどん持っていけるようになっていきたいなって思いますね。」

その瞬間、全力で挑む

Q.さまざまな出会いから、映像への姿勢や考え方にも変化があったようですが過去の作品をリメイクしたくはならないのでしょうか?

諏訪さん
「いや、そういったことはないです。多分いま見たら目も当てられないんですけど、でもその時は精一杯やってそれだったんだろうし、その時なりのベストは毎回出していたんだろうなって思うんで、(リメイクしたいって気持ちは)全くないですね。
代表作をたまに聞かれることがあるんですけど、次回作としか言いようがないんです。
どんなにうまくいった現場でも”次の方がうまくできるはずだ”って思っていますね。」


Q.諏訪さんが最終的に目指す表現とはどんなものでしょうか。

諏訪さん
「楽しく生きること、ですかね。ただ、ここに関してはまだちゃんと答えられる自信がないですね。やっぱり映画ってものに対しての憧れが凄いあるんですけど、今映画をやってないんで、それが本当なのか分かんないんです。
でももっと俯瞰して見たら、映画を撮る時がきたら今の生活がベースになってくると思うんで、状況や変化に対して柔軟でオープンでいることが大切かなって。
そうやってベースである生活を大切にできれば、もし映画を撮れなかった人生だとしても、映像になってないだけで、生活の中にある“その瞬間の映画っぽさ”っていうのをたくさん集められて多分幸せだから。作品だけじゃないんすよ。そういう風にいられる自分を作るっていうのが1番ですね。だから僕、肩書きもなんでもいいんですよ。」

編集後記
諏訪さんは“作品づくりをしたい”というより、その時に湧き上がった感情やその場で発生している空気感を表現として残そうとしているのだと感じました。その時の感情はそのときだけのもの。あとからリメイクや再現はきっとできるし、”作品”としては上等なものができるかもしれないですが、そうして出来上がったものは、もう諏訪さんが表現したいものではなくなっているのだろうと思いました。
子どもが大人になったら、考えていることも立場も空気も感情も全部形を変えてしまう。
諏訪さんが表現したいのは、そうした瞬間的な儚い人の姿なのかもしれません。
もちろん、それを撮る諏訪さん自身も常に変化していて、“それ”を撮れるのはその時の諏訪さんだけ。諏訪さんが、タイムカプセルのように、その瞬間を閉じ込めた映像をもっと見てみたいと思いました。


書いた人

阿部未和
『求人広告の制作経験を経て、
現在は地元テレビ局のフリーランス記者として活動中。影で活躍する人を発掘・取材することに喜びを感じる。

タレントリストでは、声優インタビューやライティングなどを担当。
エンタメ好きで、これまでテレビで取り上げた人物は、有名マンガ家や音楽アーティスト、五輪選手など多岐に及ぶ。』